茶店の老婆との会話は、単なる世間話を超え、主人公(余)の脳内で西洋と東洋の「悲劇のイメージ」が衝突する知的な格闘へと発展します。
1. ミレーの『オフェリヤ』という闖入者
婆さんから「馬に乗った花嫁」の昔話を聞いた瞬間、画家の「余」の頭には、ある強烈な西洋のイメージが忽然と浮かび上がります。
「ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜんと)出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速(さっそく)取り崩(くず)す。」
- 出典:ジョン・エヴァレット・ミレー『オフェリヤ(Ophelia)』
- シェイクスピア『ハムレット』のヒロインが、狂気の中で歌いながら川に流されていく姿を描いたラファエル前派の傑作です。
- 解釈:
- 主人公は当初、東洋的な「馬上の花嫁」というおめでたい図像を写生しようとしていました。しかし、そこに西洋的な「死と狂気の美」を象徴するオフェリヤが重なってしまいます。これは、この後出会う那美さんが抱える「美しくも壊れた内面」を予感させる、不穏な芸術的直感です。
2. 『萬葉集』に根ざした「長良の乙女」伝説
老婆はさらに、那美さんの身の上を、この土地に伝わる古代の伝説になぞらえて語り始めます。
「嬢様と長良(ながら)の乙女(おとめ)とはよく似ております。……あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」
- 出典:『萬葉集』巻十六・3791(長良の乙女の伝説)
- 二人の男から同時に求婚され、どちらを選んでも恨みを残すことを悲しんで入水した乙女の悲劇です。
- 原文引用(萬葉集):
- 「秋付けば 尾花が上に 置く露の 消ぬべくもわは 思ほゆるかも」
- 対訳:
- (秋になるとススキの穂の上に置く露がはかなく消えてしまうように、私も死んでしまいたいほど思い悩んでいるのです。)
老婆が語るこの古雅な歌は、那美さんがかつて「京都の修行先での恋」と「城下の物持ちとの縁談」の間で揺れ、親の勧めで不幸な結婚を強いられた現実と二重写しになります。山里の老婆が、万葉の時代から続く「日本的な悲劇」の語り部となる瞬間です。
3. 俗界の「臭い」と非人情の危機
しかし、話が「銀行の倒産」や「不人情な女という世評」といった生々しい現実に及ぶと、主人公は激しい忌避感を示します。
「これからさきを聞くと、せっかくの趣向(しゅこう)が壊(こわ)れる。ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て羽衣(はごろも)を帰せ帰せと催促(さいそく)するような気がする。」
- 解釈:
- 主人公にとって、那美さんはあくまで「画題(モチーフ)」でなければなりません。彼女の生活上の苦労やドロドロとした人間関係は、彼の「非人情(芸術的観照)」を汚す俗界の「垢(あか)」に他ならないのです。彼はこれ以上「俗」に染まるのを恐れ、茶代を投げ出して宿へと向かいます。
まとめ:雅俗が交錯する宿命の予感
今回の場面で提示されたキーワードは、物語の結末に向けた重要な伏線となっています。
| 漱石のイメージ | 出典・背景 | 象徴するもの |
| オフェリヤ | ミレー(西洋絵画) | 水死、狂気、西洋的な悲劇美 |
| 長良の乙女 | 萬葉集(和歌) | 入水、二男の求婚、東洋的な宿命 |
| 流光(りゅうこう) | 古典語 | 月日の流れ、転輪の速さ |
「非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない」と強がりながらも、那美さんの生々しい不幸に怯える主人公。彼は長良の乙女の五輪塔を経て、ついに運命の女が待つ「那古井の宿」へと足を踏み入れます。



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