1. 「九畹(きゅうえん)」の蘭――屈原『離騒』の隠逸
池のほとりに座した主人公は、世俗の権力(岩崎・三井・帝王)を「風馬牛(ふうまぎゅう)」とする自然の無私を称えます。ここで彼の脳裏にあるのは、中国史上最高の悲劇詩人・**屈原(くつげん)**の精神です。
- 出典:屈原『離騒(りそう)』原文: 「余既滋蘭之九畹兮、又樹蕙之百畝」 対訳: 私はすでに広い(九畹の)畑に蘭を栽培し、また百畝の土地に蕙(かおりぐさ)を植えた。
- 解説: 「九畹(きゅうえん)」とは約30万坪に及ぶ広大な土地を指します。俗世の汚れを嫌い、香草(徳の象徴)を育てて独り高潔に生きる屈原の姿を、主人公は鏡ヶ池での自らの境遇に重ねています。都会の「探偵(スパイ)」が跋扈する世界よりも、蘭の中に起臥する孤独の方が「遥かに得策」であるという、強烈な隠逸思想の表れです。
2. 自然の「平等観」と対絶の境地
主人公が語る「対絶の平等観」は、荘子の**「万物斉同(ばんぶつせいどう)」**の思想に裏打ちされています。
- 漢文学的視点: 自然は富豪も乞食も差別せず、ただ冷然と存在し、その屍さえも肥料として受け入れる。この「公平無私」な自然の態度こそが、彼が「非人情」を志向する上での究極の教科書となっています。「自然の徳は高く塵界を超越して、対絶の平等観を無辺際に樹立している」 この一文は、人間の功利的な価値基準を否定し、宇宙的な広がり(無辺際)の中で美を捉えようとする漱石自身の宣言でもあります。
3. 妖女としての椿――「沈んだ赤」の恐怖
静寂な池を乱すのは、ぽたりぽたりと落ちる椿の花です。主人公はこの花に「嫣然(えんぜん)たる毒」を見出します。
- 比較美学:梨花・海棠・椿
- 雨中の梨花: 「悄然(しょうぜん)として萎(しお)れる」。白居易が楊貴妃の涙を例えた「梨花一枝春帯雨」の通り、憐れな情。
- 月下の海棠(かいどう): 「冷やかに艶(えん)なる」。蘇軾が『海棠』で詠んだ通り、愛らしい情。
- 鏡ヶ池の椿: 「黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味」。
- 分析: 椿が「崩れずに、かたまったまま」落ちる様を、彼は「屠られたる囚人の血」と呼びます。これは自然美の枠を超え、那美という女性が抱える「底知れぬ狂気」が物質化したものです。
4. 芸術の完成――「憐(あわ)れ」の発見
那美をモデルに「池に浮かぶ画」を構想する中で、彼は決定的な不足に気づきます。それは「憐れ」という文字です。
- 画工の観想: 那美の顔には、人を食った「微笑」と、勝ち気な「八の字の眉」しかない。しかし、この冷徹な「非人情」の奥に、人間としての**「憐れ(compassion)」**が宿った瞬間こそが、芸術が「人間を離れないで人間以上の永久」に達する時だと悟ります。
まとめ
第十章は、屈原の孤独な高潔さと、椿という血の赤、そして那美の表情に欠けた「憐れ」が渦巻く、極めて思索的な章です。
- 九畹の蘭: 俗世を拒絶する文人の気概。
- 椿の落花: 死と妖艶、そして血の象徴。
- 憐れの予感: 非人情の旅の果てに見出すべき、真の人間性。


