第十一章では、主人公(余)が朧月夜に誘われ、那美の参禅の師でもある大徹和尚が住まう「観海寺」を訪れます。
ここでは世俗の「屁の勘定(探偵的・功利的な詮索)」から離れ、ただ興に乗じて歩む「随縁放曠(ずいえんほうこう)」の精神が描かれます。木蓮の花影と、禅僧の洒脱な機鋒が交錯する、静謐かつユーモラスな一章です。
1. 「随縁放曠(ずいえんほうこう)」の散歩術
石段を登る主人公は、自分の散歩を**「随縁放曠」**と呼びます。これは禅の根本的な生き方を示す言葉です。
- 出典:『証道歌(しょうどうか)』等原文: 「随縁放曠任去来」 対訳: 縁に従ってゆったりと心を開き、去るも来るも自然のままに任せる。
- 解説: 「興来れば方針とし、興去ればやめにする」。目的や利益に縛られず、今この瞬間の「興」に遊ぶ。漱石はこの言葉に、西洋的な個人主義を超えた東洋的な自由を見出しました。
2. 晁補之(ちょう ほし)の記行文――「鬼魅(きび)」の幻想
境内の覇王樹(サボテン)を見た主人公は、北宋の文人・晁補之の文章を暗誦します。
- 出典:晁補之『新城遊北山記』原文: 「仰視星斗皆光大、……竹間梅棕森然、如鬼魅離立笑 pumpkin 之状」 対訳: 仰ぎ見れば星々は大きく光り、まるで人のすぐ上にあるかのようだ。竹藪の間に生える梅や棕櫚(しゅろ)がうっそうと立ち並ぶ様は、まるで化け物(鬼魅)が離れて立ち、あざ笑っているかのようだ。
- 解説: 静寂な夜の自然が、ふとした瞬間に恐ろしい幻影(鬼魅)として迫る感覚。漱石はサボテンの奇妙な造形を「鬼の念仏が踊っている姿」と形容し、漢籍の教養を借りて「非日常の恐怖」と「滑稽さ」を二重写しにしています。
3. 木蓮(もくれん)の花――「卑下」と「自足」の美
庫裏の前に立つ巨大な木蓮を見上げ、主人公は一句を得ます。
「木蓮の花ばかりなる空を瞻(み)る」
- 漢文学的視点: 木蓮の色を「淡黄(たんこう)」と呼び、純白を避けて「自らを卑下している」と評します。これは中国の文人画における**「不諂(ふてん:へつらわない)」**の精神に通じます。 いたずらに目を引こうとせず、ただ一輪が一輪として自立し、空の青さを透かして見せる。この「おとなしい花」の姿に、主人公は理想の「非人情」を見出したのです。
4. 大徹和尚の教え――「日本橋の真中に臓腑をさらけ出す」
和尚との対話では、那美がなぜあのように「訳のわかった(鋭い)」女になったのか、その理由が語られます。
- 和尚の言葉(出典:禅的格言):「人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、恥ずかしくないようにしなければ……」
- 分析: 他人の目を気にする「屁の勘定(探偵)」の世界を脱し、公衆の面前で内臓(本音・本質)をさらけ出しても揺るがない自己。那美は和尚の下で法を問い、機鋒(鋭い精神的働き)を磨いた「修業者」だったのです。 和尚が最後に言う「風が吹いても苦にしない松の影」という言葉は、運命に翻弄されながらも中心を失わない那美の強さを象徴しています。
まとめ
第11章は、幽玄な月の光の中で、芸術家(余)と宗教者(大徹)が「美」と「覚り」の境界線で響き合う章です。
- 随縁放曠: 方針を持たないという、最強の方針。
- 覇王樹と木蓮: 怪異と清廉、二つの自然の顔。
- 脚下照顧(脚下を見よ): 遠くを見ず、今自分の足元(自己)を見つめること。


