人生には、どれだけ努力しても「穴」に落ち、這い上がった先でまた「穴」に落ちるような時期があります。
易経の二十九番目にあたる**「坎為水(かんいすい)」は、水が重なり、険しい谷が続く姿を象徴しています。しかし、水はどれほど険しい地形でも、自らの性質を変えずに流れ続け、最後には目的地に到達します。この記事では、卦辞の漢字を漢和辞典の語義序列から深掘りし、「十翼(じゅうよく)」**が教える「困難を通り抜ける水の哲学」を解説します。
徹底解読:卦辞「習坎、有孚、維心亨、行有尚」
漢和辞典の語義序列を精査し、「坎」という字が持つ「陥る」恐怖と、それを克服する「習慣」を読み解きます。
- 【坎】(カン・あな・けわしい)
- あな: 地面のくぼみ、落とし穴。
- けわしい: 険難、困難な状況。
- いれる: 穴に埋める。
- 根拠: ここでは**1と2を合わせた「逃れられない二重の困難」**を採択します。上下ともに水(険難)であるため、一時的な回避は通用しない状況を指します。
- 【習】(シュウ・ならう・かさねる)
- ならう: 羽ばたきの練習をする、学習する。
- かさねる: 重複する。
- 根拠: 1と2の両方の意味を含みます。困難が重なる(2)からこそ、それに慣れ、習熟する(1)必要があるというパラドックスです。
- 【有孚】(ユウフ・まことあり)
- 根拠: 誠実さ、真実。外側が絶望的だからこそ、内側の「まこと」だけが光となります。
- 【維心亨】(イシンコウ・これこころとおる)
- 根拠: 物理的な状況は変わらなくても、心(精神)の持ちよう一つで道は開けます。
【総合解釈】
坎(あな)が重なり、険難が続く(習坎)。しかし、心に偽りのない誠実さ(有孚)を抱き続けるならば、精神の自由は失われず、道は通じる(維心亨)。この信念を持って行動すれば、必ずや賞賛される結果(行有尚)を得るだろう。
十翼が説く「険に当たりて失わざる」道理
十翼の**『彖伝(たんでん)』**は、この卦を「習坎は重険(じゅうけん)なり」と定義します。
水は険しきを流れても、その「まこと(潤す性質)」を失わず、穴を満たさなければ次へ進みません。さらに「天の険は登るべからず、地の険は山川丘陵なり。王公は険を設けて、もって国を守る」と説いています。険しさは人を苦しめるだけでなく、守るための砦にもなる。つまり、困難を「避けるべき敵」ではなく「自分を鍛え、守るための環境」として捉え直す視点を与えています。
また、**『序卦伝(じょけでん)』**では「物、もって過ぎるに終わるべからず。ゆえにこれを受くるに坎をもってす」とあります。大過(行き過ぎ)の状態はいつまでも続かず、必ず一度「どん底(坎)」に落ちてリセットされるという自然のサイクルを説いています。
穴の深さと脱出の6段階
坎為水における「苦難の深度」を、爻辞(こうじ)と十翼の**『象伝(しょうでん)』**から見ていきましょう。
| 段階 | 易経の言葉(爻辞) | 十翼(象伝)による指針 | 現代的解釈 |
| 第一 | 習坎。坎(あな)に入りて窞(あな)に入る。凶 | 「道、失うなり」:穴の中にさらに深い穴がある。 | 混乱: 最初の失敗で動転し、さらに深いミスを重ねる。最悪の事態。 |
| 第二 | 坎に険あり。求めて小しく得ることあり | 「未だ中を出(い)でざるなり」:険難の中。少しだけ救いがある。 | 忍耐: まだ脱出はできないが、小さな成果を糧に希望を繋ぐ。 |
| 第三 | 来(きた)るも行くも坎、坎なり | 「終(つい)に功なきなり」:進んでも退いても穴ばかり。 | 膠着: 下手に動くと怪我をする。今は穴の底でじっとしている時。 |
| 第四 | 樽(そん)酒、簋(き)弐(じ)を、牖(まど)より納(い)る | 「剛柔を際(まじ)うるなり」:質素な食事を窓から差し入れる。 | 誠意: 形式にこだわらず、真心だけで目上の助けを求める。活路が開く。 |
| 第五 | 坎(あな)盈(み)たず。既(すで)に平らかなり。无咎 | 「中、未だ大ならざるなり」:穴が水で満ちて平らになる。 | 好転: 苦労が報われ、ようやく危機を脱する。派手さはないが平穏。 |
| 第六 | 徽(き)纆(ぼく)に係(つな)がれ、叢棘(そうきょく)に置かる | 「三歳まで得ざるなり。凶」:縄で縛られ、棘の中に投げられる。 | 拘束: 意地を張り、正道を見失った末の自業自得。長期の停滞。 |
十翼が説く「教えを重ね、事を習う」教え
坎為水の**『象伝(しょうでん)』**には、この苦難の時期をどう自分自身の成長に繋げるべきかが記されています。
水、重ねて至るは、習坎なり。君子もって徳行(とくこう)を重ね、教事(きょうじ)を習(なら)う。
水が絶え間なく流れ、岩を削り、形を変えていくのが坎の形です。
君子(リーダー)はこれを見て、「徳行を重ね(常徳行)」、つまり「良い習慣を繰り返し行い」、さらに**「教事を習う(習教事)」**、つまり「学んだことを何度も反復練習して、自分の血肉にする」べきだと説いています。
坎の時期は「新しいこと」を始める時ではなく、「当たり前のこと」を完璧にこなせるまで反復練習する、トレーニング期間なのです。
坎為水の教えを今すぐ活かすべき人
- 現在、仕事や人間関係で八方塞がりの状態にあり、逃げ場がないと感じている方
- 重なるトラブルに心が折れかかり、どうやって正気を保てばいいか悩んでいる方
- スキルや知識を自分のものにするために、地道な努力を続けている方
坎為水は、穴を埋めるまで水は先へ進まないように、困難を「解決」しようとするのではなく、まずは自分自身がその状況に「習熟」することを教えてくれます。
もしあなたが今、深い穴の中にいるなら、それは第四爻の**「窓から納れる」**ように、プライドを捨てて誠実なコミュニケーションを取るべき時です。また、象伝が説くように、日々のルーティン(徳行)を淡々とこなしてください。水がいつか穴を満たして溢れ出すように、あなたの誠実さが積み重なったとき、険難はあなたを育てる「砦」へと姿を変えるはずです。
十翼の**『彖伝』**はこう締めくくっています。
「険の時用(じよう)、大いなるかな」
この困難を乗り越えたとき、あなたの魂は誰にも壊せない「水の強さ」を手に入れているのです。
次回の予告:
次は、上経(三十卦)の締めくくり。燃え上がる火のように、正しきものに付着して光り輝く**「離為火(りいか)」**について解説します。情熱の維持と、賢者に「付く」ための智慧を学び、第一部を完結させましょう。
それでは。


