「逃げる」ことは、負けではありません。むしろ、最強の「攻め」である場合があります。
易経の三十三番目にあたる**「天山遁(てんざんとん)」は、身を引くことの美学を説く卦です。上には遠ざかる「天」、下にはどっしりと止まる「山」。山が天に届こうとしても、天はさらに高く退いていく。この「追いつかせない距離感」こそが、自分の尊厳を守る最大の武器になります。この記事では、卦辞の漢字を漢和辞典の語義序列から深掘りし、「十翼(じゅうよく)」**が教える「美しき撤退戦」について解説します。
徹底解読:卦辞「遁、亨。小利貞」
漢和辞典の語義序列を精査し、「遁」という字に込められた「素早さ」と「巧妙さ」を読み解きます。
- 【遁】(トン・のがれる・しりぞく)
- のがれる: 避けて去る、逃亡する。
- しりぞく: 退却する、身を引く。
- かくれる: 姿を隠す、隠遁する。
- 根拠: 字源的には「しんにょう(歩み)」と「豚」から成ります。肥えた豚が素早く逃げ去るように、**「執着を捨てて、機敏に困難から遠ざかる」**という意味を採択します。
- 【亨】(コウ・とおる)
- 根拠: 正しく逃げることができれば、状況は好転し、道は通じます。
- 【小利貞】(ショウリテイ・すこぶるただしきによろし)
- 根拠: 「小さな事(現状維持や些細な抵抗)」に関しては、正しさを守る程度の消極的な姿勢がちょうど良い時期です。大きな勝負に出る時ではありません。
【総合解釈】
遁(とん)の時は、あえて退くことで道が開ける(亨)。無理に戦わず、一歩引いて静観することが賢明である。今は大きな野心を捨て、現状を正しく守るという小さな誠実さ(小利貞)を大切にすべき時期である。
十翼が説く「時(とき)に当たって遁(のが)れる」道理
十翼の**『彖伝(たんでん)』は、この卦の「逃げ」を極めて前向きに評価します。 「遁(とん)にして亨(とお)るとは、剛、位(くらい)に当たって応じ、時とともに働くべきなり」 逃げることは臆病ではなく、「時の流れ(タイミング)」に合わせる高度な戦略であると説いています。さらに、「遁の時用(じよう)、大いなるかな」**と絶賛し、引き際の鮮やかさがその人の人格(君子か小人か)を決定づけると教えています。
また、**『序卦伝(じょけでん)』**では「恒(継続)とは久しくすることなり。物はもって久しくその所に居るべからず。ゆえにこれを受くるに遁をもってす」とあります。どんなに良い状態でも、同じ場所に居続ければ停滞し、腐敗が始まります。だからこそ「遁」によって新しい局面へ移る必要があるのです。
鮮やかな退却の6段階:しんがりから飛翔まで
天山遁における「身の引き方」を、切迫した状況とともに見ていきましょう。十翼の**『象伝(しょうでん)』**がその心構えを説きます。
| 段階 | 易経の言葉(爻辞) | 十翼(象伝)による指針 | 現代的解釈 |
| 第一 | 遁(とん)の尾。危うし。往(ゆ)くところあるに用うるなかれ | 「往(ゆ)かなければ、何の災いかあらん」:逃げ遅れて尻尾になる。 | 出遅れ: 決断が遅れ、最後尾で危機に晒される。今は動かず嵐をやり過ごせ。 |
| 第二 | これに執(とら)うるに、黄牛(こうぎゅう)の革(かわ)を以てす | 「志、固きなり」:丈夫な牛革で縛られたように動かない。 | 固執: 逃げたいが、義理や責任で動けない。自分の信念を固く守る時期。 |
| 第三 | 繋(つな)がれたる遁。疾(やまい)ありて危うし | 「臣僕(しんぼく)を蓄うるには吉なり」:未練があって繋がれている。 | 未練: 人情や利害に引かれて逃げ切れない。部下の面倒を見る程度なら可能。 |
| 第四 | 好(よ)く遁(のが)る。君子は吉、小人は否(わろ)し | 「君子は遁れ、小人は否なり」:愛着を断って鮮やかに逃げる。 | 決断: 好きな仕事や地位であっても、時機を見て潔く去る。君子の業。 |
| 第五 | 嘉(よみ)して遁(のが)る。貞にして吉 | 「志、正しきなり」:誰からも賞賛される美しい引退。 | 円満: 周囲に惜しまれつつ、正しいタイミングで一線を退く。最高の形。 |
| 第六 | 肥(ゆた)かに遁(のが)る。利(よろ)しからざるなし | 「疑うところなきなり」:余裕を持って、ゆったりと遠ざかる。 | 超越: 執着を完全に捨て、自由の身になる。もはや何の不安もない。 |
十翼が説く「小人を遠ざけ、厳(いか)めしくせず」教え
天山遁の**『象伝(しょうでん)』**には、対立する勢力との「大人の距離感」が記されています。
天の下に山あるは、遁なり。君子もって小人を遠ざけ、厳(いか)めしくせずして、厳(きび)しくす。
天(君子)が山(小人)から遠ざかっていくのが遁の形です。
君子(リーダー)はこれを見て、「小人を遠ざける」際に、「厳めしくせず(不悪:憎まず)」、しかし**「厳しく(有厳:毅然と)」**接するべきだと説いています。
感情的に攻撃したり、説教したりするのは、まだ相手に執着している証拠です。本当の「遁」とは、怒りを見せず、ただ静かに、しかし決定的に「関わらない距離」を作ることなのです。
天山遁の教えを今すぐ活かすべき人
- ブラックな環境や、不毛な人間関係から抜け出したいと思っている方
- 投資の「損切り」や、プロジェクトの中止判断に迷っている方
- 定年退職や移籍など、人生の大きな「ステージ変更」を控えている方
天山遁は、身を引くことは逃避ではなく、次に大きく飛躍するための「スペース」を作ることだと教えてくれます。
もしあなたが今、執着に苦しんでいるなら、第四爻の**「好く遁る」**のように、自分にとって「心地よいもの」さえも手放す勇気を持ってください。象伝が教えるように、嫌いな相手を攻撃するエネルギーを、自分を遠ざけるエネルギーに変えるのです。あなたが「肥(ゆた)かに」逃げ切ったとき、そこには戦っていた時よりもずっと広大で自由な「天」が広がっているはずです。
十翼の**『彖伝』**はこう締めくくっています。
「時に当たって遁れる。その義、大いなるかな」
最高のタイミングで席を立つ。その美しさが、あなたの次の勝利を約束します。
次回の予告:
次は、逃げた後に蓄えた力が爆発する、圧倒的な勢いの卦**「雷天大壮(らいてんたいそう)」**について解説します。強大なパワーをどうコントロールすべきか、その「ブレーキ」の智慧を学びましょう。
それでは。


