草枕第10回|温泉の美学:白楽天とミレー、嫦娥に見る非人情

文学

第十回:第七章 温泉の美学|白楽天とミレー、そして嫦娥の幻影

第六章で漢詩の「静」に達した主人公(余)は、第七章で肉体の境界を溶かす「温泉」という液体の宇宙へ踏み込みます。

ここは、白楽天の詩情とミレーの色彩、そして東洋の神話が湯煙の中で交錯する、本作屈指の美学的空間です。

自己を「流れるもの」へと解き放ち、執着の栓を抜いた先に現れる「嫦娥(じょうが)」の正体を、漢籍と画論の視点から紐解きます。


1. 「水滑(すいかつ)」の快感――白楽天の詩情を浴びる

湯船に身を沈めた主人公の脳裏に浮かぶのは、温泉の薬能といった実利ではなく、白楽天が『長恨歌』に刻んだ不滅の一節です。

  • 白居易『長恨歌』の引用と感触原文:「春寒賜浴華清池、温泉水滑洗凝脂」対訳:春まだ寒い頃、華清宮の池で入浴を賜った。温泉の水は滑らかで、色白の肌(凝脂)を洗い流す。

彼はこの「水滑(みずなめらか)」という言葉の響きにこそ、温泉の真の価値を見出しています。

「温泉という名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる」と語る通り、彼は肉体を通じて古典の世界に潜り込んでいるのです。

春宵の靄(もや)に包まれ、**「煙に酔う」**心地で湯に浸かる。

それは、自意識という強固な「錠前」を開け、己を「古き世の男」へと変容させる儀式に他なりません。


2. 「風流な土左衛門」論――ミレーのオフェリヤを越えて

湯船に仰向けになり、身体を漂わせる主人公は、自らを「土左衛門(水死体)」に擬するという、一見して不穏ながらも極めて芸術的な思考に耽ります。

西洋の写実と東洋の非人情:比較の観点

比較項目ミレーの『オフェリヤ』漱石(余)の「土左衛門」
表現の核心悲劇的な死と植物の緻密な写実執着を離れた「流転」の美
表情の課題痙攣的な苦悶(全幅の破壊)平和でありつつ「人情」を宿す顔
芸術的境地視覚的な「画」としての完成魂がクラゲのように浮く「ムード」

「浮かば波の上、沈まば波の底、春の水なら苦はなかろ」

この「土左衛門の賛」と称される独白は、運命に抗わず、自然の流転に身を委ねる**「随縁(ずいえん)」の思想の横溢です。 彼はミレーの傑作を認めつつも、その奥にある「苦悶」を排除し、完全に平穏な「流れる姿」を描くことで、西洋絵画にはない「非人情」の極致**を目指そうと試みます。


3. 「嫦娥(じょうが)」の出現――裸体画における「気韻」の正体

湯煙の奥から現れた那美の裸体。主人公はそれを「露骨な肉の美」としてではなく、神話的な「画題」として視ます。

ここで語られるのは、当時のフランス(サロン)の裸体画に対する鋭い批判と、東洋的な**「気韻(きいん)」**の重要性です。

  • 西洋 Naked と東洋の幽玄西洋の画家が肉体を「十二分にも十五分にも」強調しようとするのに対し、漱石はそれを「卑しい(気韻に乏しい)」と退けます。「放心」と「無邪気」が示す**「余裕」**こそが、芸術の必須条件であると説くのです。
  • 月の女神「嫦娥(じょうが)」の幻影嫦娥奔月(じょうがほんげつ): 月の不死薬を盗み、月へ逃げ去った伝説の美女。

湯煙という「霊氛(れいふん)」が輪郭をぼかし、すべてを描き尽くさないことで、那美の姿は「天上の美」へと昇華されます。

六々三十六枚の鱗を丁寧に描きすぎた竜が滑稽に堕するように、赤裸々な肉体を眺め尽くさぬ「余白」の中にこそ、神往の余韻が宿る。

彼女の「ホホホホ」という笑い声とともに消え去った姿は、まさに**「白雲郷」の使者**そのものでした。


まとめ

第七章は、温泉という密室で主人公が「自己」を液体化し、宇宙と調和させるプロセスを描いています。

  • 白楽天の詩で感性を研ぎ澄まし、温泉を「聖域」へと変える。
  • ミレーの『オフェリヤ』を批評し、死をさえ「風流」として客観視する。
  • 那美の裸体を「嫦娥」として視ることで、自意識のない純粋な美に触れる。

これら一連の「執着の栓を外す」旅は、いよいよ第八章、彼女の謎の核心と「現実の重み」が交錯する局面へと向かいます。

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