達磨を草書に崩す――第8章、大徹和尚の禅味と「野人献芹」のパロディ
温泉の恍惚から覚めた主人公を待ち受けていたのは、老隠居と大徹和尚が囲む、静かな煎茶の席でした。
紫檀の机、虎の皮、そして中国伝来の敷物「花毯(かたん)」。
ここには、漱石が理想とした「東洋的隠逸」の美学が、調度品の一点一点にまで緻密に配されています。
なぜ漱石は、茶を飲む行為を「顎を疲らすほどの硬さ」と表現したのか。
大徹和尚の風貌に託された「草書の美学」とは何か。
今回は第11回として、作中に登場する骨董や漢籍の出典を紐解きながら、第8章に凝縮された文人的教養の深層へと分け入ります。
1. 花毯(かたん)と「支那の抜け」の美学
老人の部屋に足を踏み入れた主人公は、まず「花毯」という中国製の敷物に目を留めます。
六角に仕切られた家と柳の模様。彼はこれを、日本や西洋の美術態度と鮮やかに対比させています。
| 美術の源泉 | 漱石による定義 | 芸術的性質 |
| 日本 | 巾着切(きんちゃくきり) | 器用だが、細部にこだわりすぎる。 |
| 西洋 | 娑婆気が取れない | 圧倒的だが、現実的・功利的。 |
| 支那(中国) | 抜けている・気の長い | こせつかず、ぼおっとした尊さ。 |
この「抜けている」という感覚は、作為を捨てた天然の趣を尊ぶ文人画の精神そのものです。
日本美術の小器用さを脱し、西洋の「娑婆気(俗気)」を超えた先にある、大陸的な余裕。
主人公が花毯の半分を占領して座る描写は、彼自身が日本の日常を離れ、悠久の芸術時間へと没入したことを視覚的に象徴しています。
2. 玉露の韻事――舌頭で味わう非人情
老人が朱泥の急須から注ぐのは、わずか二三滴の「玉液」です。
漱石は、茶を単なる飲料としてではなく、五感を研ぎ澄ませるための**「韻事(いんじ)」**として描きました。
「舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない」
この表現は、物質を摂取する実利的な行為から、香りという「気」を全身に浸透させる精神的行為への転換を意味します。
「顎を疲らすほどの硬さ」という逆説的な表現は、極限まで濃縮された「静寂」の質量を、舌の先で受け止める緊張感を表しています。
「眠られぬと訴うるものあらば、眠らぬも、茶を用いよ」という言葉は、覚醒したまま夢の境地に留まる「非人情」の追求そのものと言えるでしょう。
3. 青磁の菓子皿と白楽天の光
席を彩る「杢兵衛(もくべえ)」の茶碗や「青磁」の菓子皿にも、漱石の深い鑑識眼が光ります。
特に青磁の皿を透かして見る描写には、光を物質の中に閉じ込めるという、東洋的な空間観が投影されています。
- 青磁の光の出典(参考)白居易(白楽天)『和微之詩二十首』原文: 「光華閃壁窓、気色迷青磁」対訳: 光は壁や窓にきらめき、その鮮やかな気配は青磁の器の中に迷い込んだかのようだ。
主人公は、皿の中に射し込んだ日影が「逃れ出ずる路を失った」と表現しました。
これは第六章の「壺中の天」の変奏であり、器というミクロな空間の中に、閉じ込められた永遠を見出す文人的な観察眼の表れです。
中身に「何も盛らぬがいい」と断じる潔さは、余白を美とする南画の精神と完全に一致しています。
4. 大徹和尚と「野人献芹」の諧謔
新登場の大徹和尚は、「達磨を草書に崩したような容貌」として描かれます。
「楷書」という現実社会の厳格な規律から脱し、自由で流動的な「草書」の世界を体現する、非人情の理解者です。
那美が和尚の袂へ「泥だらけの芹(せり)」を押し込んだというエピソードは、単なる悪戯ではありません。
ここには、中国の古典『列子』に見られる故事が静かに反響しています。
- 野人献芹(やじんけんきん)の故事出典: 『列子』楊朱篇原文: 「昔人有……甘枲茎芹者、対郷豪、称之。豪取而嘗之、対口、惨于体。」対訳: 昔、野の人が芹(せり)の味を美味だと思い、村の権力者に献上した。権力者がそれを食べると、口を痛め、体を悪くした。
那美の行為は、この故事をさらに「非人情」に裏返したパロディです。
世俗の権威(和尚)に対して、生のままの自然(泥だらけの芹)を突きつける彼女の奔放さは、形式に拘泥しない文人的な「無邪気」を象徴しています。
まとめ
第8章における煎茶の席は、隠居、和尚、そして主人公が「南画的教養」という共通言語で通じ合う、高度な文芸サロンの場でした。
- 花毯: 技巧を超えた「支那の抜け」の象徴。
- 玉露: 舌先で味わう精神的な「静寂」。
- 青磁: 光を封じ込めたミクロな「壺中の天」。
- 大徹: 達磨を草書に崩した、非人情の化身。
次回の予告:
第12回、いよいよ舞台は観海寺へ。和尚と主人公の対話は、さらに深い「空」の哲学へと向かいます。那美さんの「姿見橋」でのエピソードから、彼女の抱える美しさと狂気の境界線をさらに深掘りします。



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