草枕第12回|端渓九眼の硯と山陽の俗気。物徂徠(荻生徂徠)の書を愛でる

『草枕』第8章後半。九つの眼を持つ端渓硯を巡り、山陽の「才子肌」を批判。物徂徠(荻生徂徠)の品格とは何か。中国文学における「眼」の価値、米芾ら愛石家の系譜から、隠居があえてこの硯を見せた真意を解剖。 文学

端渓の「眼」が語る品格――頼山陽を「俗」と断じる文人の眼力

第11回までの静かな煎茶の席は、老隠居が書架から取り出した一つの「硯(すずり)」によって、鋭い芸術批評の場へと転換します。 頼山陽の愛蔵品とされる端渓(たんけい)の硯。しかし、大徹和尚と主人公(余)は、江戸後期の文壇の英雄である山陽を「俗」として一蹴します。

なぜ漱石は、山陽をこれほどまで峻烈に批判したのか。物徂徠(ものそらい)や高泉(こうせん)との対比を通じて、漱石が求めた「品格」の正体を読み解きます。


1. 頼山陽(らい さんよう)への冷徹な評価

【人物解説:頼山陽】 江戸後期の歴史家・漢詩人。主著『日本外史』は幕末の志士たちに多大な影響を与えました。天才的な詩才と書画の才を誇り、当時の文壇の寵児(スター)でした。

【漱石・大徹による批判の核心】 大徹和尚は山陽の字を「一番まずい」とし、その理由を**「才子肌で俗気があって、いっこう面白くない」と断じます。 また、主人公(余)も、山陽が自ら作ったという松の皮の硯蓋を、わざとらしく鱗を磨き出した点に触れ、「どうせ自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなもの」「山陽は俗な男だ」**と容赦ありません。

【漱石の別文献における評価】 漱石は他の随筆や書簡においても、山陽的な「才走った美」を警戒していました。

「頼山陽は才子なり。才子の作は、人を驚かすに足れども、人を感ぜしむるに足らず」(意訳) 漱石にとって、技巧を誇示し、見る者を圧倒しようとする態度は、最も「非人情」から遠い「自意識の露出」に他なりませんでした。


2. 物徂徠(ものそらい)と「古人の品格」

山陽の軸を外した後に掛けられたのは、江戸中期の儒学者・物徂徠の大幅です。

【人物解説:物徂徠】 江戸中期の古文辞学の創始者。享保の改革にも関わった碩学です。

【評価と出典】 大徹和尚は、徂徠を「山陽より遥かにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある」と評します。

  • 出典の引用: 「広沢(こうたく)をして日本の能書ならしめば、われはすなわち漢人の拙(せつ)なるもの」
    • 解説: 江戸初期の能書家・近衛信尹(広沢)の流麗な和様を「日本の能書」とするなら、自分(徂徠)の字は無骨で下手(拙)な「漢人の字」であるという自負。
  • 漱石の視点: 技術的に「うまい」ことよりも、その人物の学問や人格が滲み出る「拙(せつ)」や「渋み」の中にこそ、真の気韻(きいん)が宿ると考えたのです。

3. 高泉(こうせん)――禅坊主の書

【人物解説:高泉性潡(こうせん しょうとん)】 黄檗宗(おうばくしゅう)の第5代管長。中国から渡来した僧で、書の名手として知られます。

大徹和尚が唯一修行したという高泉の字は、飾り気がなく、仏法の真理をそのまま形にしたような力強さが特徴です。和尚が「禅坊主は本も読まず、手習いもせん」と笑い飛ばす背景には、作為を捨てた**「無心」**の境地への自負が見て取れます。


4. 端渓の硯と「九つの眼(がん)」

老人が出した硯は、ただの道具を超えた「宇宙」を内包する逸品として描かれています。

  • 端渓(たんけい): 中国広東省端渓で産出される最高級の硯石。
  • 眼(がん): 硯の石の中に自然にできる円形の紋様。
    • 漱石の描写: 「紫色の蒸羊羹の奥に、隠元豆を、透いて見えるほどの深さに嵌め込んだようなもの」
  • 彫刻の意匠: 蜘蛛(くも)の背に象られた肉。中央の一つの眼が「黄な汁を滴らしたごとく」見えるという、凄絶なまでの写実。

主人公はこの硯の肌合いに触れ、一息かければ「直ちに凝って、一朶(いちだ)の雲を起すだろう」と感服します。これは、物質が生命や気象を宿すという東洋的な「石の美学」の表現です。

1. 物徂徠(荻生徂徠)――「拙」に宿る品格

作中で「物(ぶつ)徂徠」と呼ばれているのは、江戸中期の儒学者・**荻生徂徠(おぎゅう そらい)**のことです。徂徠の姓「荻生」の「物」をとった呼称で、当時の教養人の間では一般的な呼び方でした。

  • 人物解説:物徂徠(荻生徂徠) 江戸中期の古文辞学の創始者。享保の改革にも関わった碩学です。
  • 漱石の評価と出典原文 大徹和尚は、山陽の華やかな字よりも徂徠の字を「遥かにいい。どこぞに品がある」と評します。出典: 「広沢(こうたく)をして日本の能書ならしめば、われはすなわち漢人の拙(せつ)なるもの」 対訳: 流麗な和様を「日本の能書」とするなら、自分(徂徠)の字は無骨で下手(拙)な「漢人の字(本場の古法)」である。漱石は、技巧で人を驚かせる山陽の「才子肌」を嫌い、不器用に見えても人格が滲み出る徂徠の「拙」の中に、真の気韻(きいん)を見出していました。

2. 端渓(たんけい)と「九つの眼」の魔力

老人が披露した「端渓九眼(きゅうがん)」の硯は、単なる文房具ではなく、中国数千年の文人文化が結晶した「聖遺物」に近い価値を持ちます。

「眼(がん)」の価値と中国文学

中国文学において、硯の石紋である「眼」は、石に宿る「精霊の瞳」と見なされました。

  • 端渓の価値: 中国広東省端渓で産出される。特に「古端渓」と呼ばれる古い時代のものは、現代では採掘不可能な「水巌(すいがん)」の地層から出たものを指し、その肌触りは「幼児の肌」や「蒸し羊羹」に例えられます。
  • 眼の意味: 石中に自然に生じる石核ですが、文人たちはこれを「生きた石の証」として愛でました。北宋の愛石家・**米芾(べいふつ)**は、名硯を抱いて眠るほど愛し、石の品格を「清、奇、古、怪」と定義しました。
  • 九眼と「九従硯(きゅうじゅうけん)」の違い: 「九従硯」は九人が順に使うといった「伝来」に重きを置く言葉ですが、本作の「九眼」は石自体に九つの紋様があることを指します。九は「陽の極数」であり、九眼は「天下の逸品」を意味します。

隠居がこれを出してきた「真意」

隠居は、山陽の愛蔵品(という由緒)と、この「九眼」という圧倒的な視覚的価値を見せることで、画工である主人公の「眼」を試そうとしたのです。 しかし、主人公は「山陽は俗だ」「松の蓋は安っぽい」と切り捨てます。これは、「有名な所有者」や「分かりやすい装飾」に惑わされない、真の非人情の眼を持っていることを証明するシーンでもあります。


3. 山陽がなぜ「だめ」なのか

漱石は、他の文献(『文芸の哲学的基礎』など)でも、自意識が透けて見える表現を厳しく批判しています。

  • 漱石による評価のまとめ
    1. 見せびらかしの美: 山陽の松の皮の蓋のように、わざとらしく磨き出した意匠は「どうだ、風流だろう」という作者の自意識が強すぎる。
    2. 才子肌の欠点: 才能(テクニック)に頼り、見る者を圧倒しようとする態度は、漱石の提唱する「余裕」や「低徊趣味」と対極にある。
    3. 時代との調和: 徂徠の字のように、彩色が褪せ、渋みがせり出してきた「古び」こそが、自然と調和する。

漱石にとって、山陽は「自分を売り込む芸術家」の典型であり、非人情の旅を続ける主人公にとって、最も避けるべき「娑婆気の象徴」だったのです。


4. 平和な隠里に逼(せま)る現実――久一の出征

第8章の結びで、物語は劇的な転換を迎えます。硯を眺めていた青年・**久一(きゅういち)**が、日露戦争への召集兵であることが明かされます。

  • 漱石のコメント「現実世界は山を越え、海を越えて……孤村にまで逼る」これまで「非人情」という詩の世界に逃避していた主人公の隣に、死の最前線へ向かう「現実の肉体」が座っている。この残酷な対比こそが、漱石が本作で描こうとした「芸術と人生の相克」の核心です。

まとめ

第8章後半は、硯という「過去の芸術」と、戦争という「現在の現実」が交錯する重要な局面です。

  • 荻生徂徠: 技巧を超えた「拙」の品格。
  • 九眼の端渓: 物質の中に宿る「精霊」と、それを鑑定する眼。

コメント

タイトルとURLをコピーしました