遠い国境の守備に就き、季節がめぐるたびに「いつ帰れるのか」と問いかける。そんな兵士たちの切実な独白が『詩経』の**「采薇(さいび)」**です。
なぜ「薇(び)」を摘む動作が繰り返されるのか?そして、有名な末尾の「雪」は何を象徴しているのか?漢和辞典の語釈を一つずつ検証することで、この詩に秘められた**「失われた時間」と「癒えぬ傷跡」**を論理的に解き明かします。
1. 『采薇』の本文と背景
まずは、植物の成長に歳月の経過を託した冒頭と、歴史的な絶唱とされる末尾を掲げます。
采薇采薇、薇亦作止。
昔我往矣、楊柳依依。今我来思、雨雪霏霏。
(薇(び)を采(と)り薇を采る、薇亦(ま)た作(おこ)る。昔我往(い)きし時、楊柳(ようりゅう)依依(いい)たりき。今我来(きた)る時、雪を雨(ふ)らして霏霏(ひひ)たり。)
出征時の美しい柳の風景と、帰還時の凍てつく雪。その対比の中に、戦場での過酷な時間が凝縮されています。
2. 漢和辞典による徹底字意分析
主要な漢字について、辞典の語釈順序に基づき検討・採択します。
「薇(び)」の意味と採択
- のえんどう。ぜんまい。
- のばら。
【採択の根拠:意味 1】
「采薇」において、辞典の「1. のえんどう・ぜんまい」を採択します。これは単なる食用植物の採取ではありません。薇は春に芽吹き、すぐに固くなります。何度も「薇を采る」と繰り返すことで、**「薇が芽吹いては固くなるサイクルが何度も過ぎ去った=数年が経過した」**ことを、植物の生態を通して論理的に示しています。
「依(い)」の意味と採択
- よる。たよる。
- したがう。
- なびく。心ひかれるさま。
【採択の根拠:意味 3】
「楊柳依依」において、辞典の「3. なびく・心ひかれるさま」を採択します。この字は「人」と「衣」から成り、服が体に寄り添うように、柳の枝が風に優しくなびく様子を指します。それは同時に、**「故郷を去りがたく、心が引き止められる」**出征時の兵士の未練を、風景に投影した見事な語釈です。
「霏(ひ)」の意味と採択
- 雪や雨がしきりに降るさま。
- 雲がたなびくさま。
【採択の根拠:意味 1】
「雨雪霏霏」において、辞典の「1. 雪がしきりに降るさま」を採択します。この字は「非(左右に分かれる)」を含み、雪がただ降るのではなく、風に舞って**「乱れ散る」**様子を表します。ようやく帰れる喜びよりも、心身の疲弊と、あまりに変わり果てた自分自身への戸惑いが、乱舞する雪の描写に重なっています。
「哀(あい)」の意味と採択
- かなしむ。あわれむ。
- いたむ。
- も。忌み。
【採択の根拠:意味 1】
末尾の「我心傷悲、莫知我哀」において、辞典の「1. かなしむ」を採択します。この字は「口」と「衣」から成り、衣を口に当てて泣き声をこらえる形に由来します。大声で泣くのではない、**「胸の内に押し込めた、誰にも理解されない深い孤独」**を表現するために、この字が選ばれています。
3. 分析まとめ:漢字が描き出す「時間の残酷さ」
| 漢字 | 採択した意味 | 選定した論理的根拠 |
| 薇 | 野生の草(のえんどう) | 繰り返される採取による、歳月の自動的な経過。 |
| 依依 | なびき、寄り添う | 美しい故郷への未練と、平和な時代の象徴。 |
| 霏霏 | 乱れ降る | 帰還路の厳しさと、乱れ動く心の葛藤。 |
| 哀 | こらえ泣く悲しみ | 戦争が奪った時間と精神に対する、静かな抗議。 |
一字一字を精査すると、この詩は単なる戦記ではありません。「植物の成長(薇)」という無機質な時間と、「心の揺れ(依・霏)」という主観的な感情を衝突させることで、戦争の虚しさを浮き彫りにする高度な論理構造を持っています。
4. まとめ:言葉の重みを知る旅
「采薇」の末尾、雪の中を行く兵士の姿は、古典文学における最も美しい場面の一つです。漢和辞典を使い、漢字の成り立ちを掘り下げることで、彼がこらえた「哀(かなしみ)」の質感が、よりリアルに伝わってきます。
- **「薇」**の一字に、過ぎ去った日々の重みを。
- **「霏」**の一字に、再会の瞬間の複雑な吐息を。
正確な字意の検証こそが、古典の言葉を、時を越えて私たちに寄り添う「生きた声」へと変えてくれるのです。
次回は、同じく小雅より、宴の喜びと官吏の心得を歌った**「鹿鳴(ろくめい)」**を解説します。鹿の鳴き声に託された理想の交流を、再び字意から探ります。


