さて、ここから第二章に入っていきます。前章までの「雨中の格闘」を終えた主人公(余)は、山中の茶店へと辿り着きます。そこで出会った老婆の姿に、漱石は「能」や「絵画」の理想を見出していきます。
1. 能楽『高砂』に見る「活人画」の美学
漱石は、茶店から現れた老婆の顔を見て、数年前に観た能の舞台を思い出します。
「二三年前宝生(ほうしょう)の舞台で高砂(たかさご)を見た事がある。その時これはうつくしい活人画(かつじんが)だと思った。……茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。」
- 出典:能楽『高砂(たかさご)』
- 室町時代の世阿弥による作。相生の松の精である「尉(じょう)」と「姥(うば)」が登場し、夫婦愛と長寿を祝う、能の中でも最も格調高い「脇能」の一つです。
- 原文(高砂・待謡):
- 「高砂の、松の春風吹き暮れて、尾上の鐘も響くなり。」
- 対訳:
- (高砂の松に吹く春風が吹き暮れて、尾上の寺の鐘の音も響いてくることだ。)
漱石は、この老婆を単なる「茶店の店主」としてではなく、様式美の極致である能の「姥(うば)」、すなわち**「活人画(tableau vivant:絵画のように静止した人間)」**として鑑賞しています。ここでも、対象を「人情」から切り離して「芸術品」として眺める非人情の視点が一貫しています。
2. 長沢蘆雪の「山姥」と対極の優しさ
老婆の描き方において、漱石はもう一つの視覚的対比を提示します。それが江戸時代の絵師、長沢蘆雪(ながさわ ろせつ)です。
「余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂(たかさご)の媼(ばば)と、蘆雪(ろせつ)のかいた山姥(やまうば)のみである。」
- 背景:長沢蘆雪『山姥図』
- 円山応挙の弟子である蘆雪が描いた「山姥」は、荒々しく、どこか物凄い迫力と妖気を孕んでいます。
- 解釈:
- 漱石は「理想の婆さんは物凄いものだ」という蘆雪的な美意識(不気味さ)も持ちつつ、目の前の老婆には宝生の能面のような「豊かで、穏やかで、あたたかい」美しさを見出しました。老婆を「春の山路の景物」として配置し、写生帖に収める行為は、まさに世界を一枚の画として構成する画家の作業そのものです。
3. 惟然(いねん)と馬の鈴|俳諧に溶ける自己
茶店に響く馬の鈴の音を聞きながら、漱石は写生帖に一句を書きつけます。
「春風や惟然(いねん)が耳に馬の鈴」
- 出典:広瀬惟然(ひろせ いねん)
- 江戸時代中期の俳人。松尾芭蕉の門人で、師の「軽み」を最もよく継承した一人とされます。
- 背景思想:
- 惟然は、作為のない、ありのままの平易な句を詠んだことで知られます。漱石は、長閑(のどか)な馬の鈴の音を聞きながら、自分の意識が惟然のような「無意識の境地」に誘われていくのを楽しんでいます。
- 解釈:
- 「春風」と「馬の鈴」という素朴な要素。ここには、第一章で格闘したような難しい漢語レトリックはなく、ただ自然な拍子(リズム)に身を任せる「非人情」の安らぎがあります。「書いて見て、これは自分の句でないと気がついた」という記述は、自己の意識が消え、過去の詩人たちの魂と混ざり合う**「没我」**の状態を示唆しています。
まとめ:非人情な日常の風景
第二章の冒頭で漱石が示したのは、不便な山里の茶店を「別乾坤(別世界)」へと変える視線の魔法です。
| 対象 | 俗なる現実 | 雅なる非人情(漱石の視点) |
| 老婆 | 店番をする老人 | 『高砂』の姥(活人画) |
| 鶏の糞 | 不潔な汚れ | 駄菓子箱の中に残された点景 |
| 鈴の音 | 運送の騒音 | 惟然の俳趣味を呼び起こす音楽 |
老婆が語る「鶯は夏も鳴きます」という言葉や、天狗岩が晴れ渡る様子。これらはすべて、二十世紀の文明から切り離された、醇乎(じゅんこ)たる詩の世界の住人たちの言葉です。
次回の解説では、いよいよ「那古井の宿」に到着した漱石が、伝説の美女・那美さんとどのような「非人情な対峙」を果たすのか。その幕開けを見ていきましょう。



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