連載第4回となる今回は、漱石が頭で組み立てた「非人情」という高い理想が、雨という「現実(生理的な不快感)」によって激しく揺さぶられる、極めて人間味あふれるシーンを読み解いていきましょう。
墨絵の世界を切り裂く「銀箭」と現実の肌触り
降りしきる雨の中、視界が遮られた風景を、漱石は「薄墨色」という水墨画のトーンで捉えようと試みます。
「茫々(ぼうぼう)たる薄墨色(うすずみいろ)の世界を、幾条(いくじょう)の銀箭(ぎんせん)が斜めに走るなかを……」
ここで使われている**「銀箭(ぎんせん)」**とは「銀の矢」を意味し、漢詩において激しい雨の直線美を称える定型的な比喩です。漱石は、衣服が濡れて不快なはずの状況を、あえて「水墨画の一場面」として鑑賞することで、芸術的境地を維持しようとしています。しかし、その直後に語られるのは「肌着に浸み込んだ水の生暖かさ」という、あまりに生々しい生理的嫌悪感でした。知性が捉える「銀の矢」と、皮膚が感じる「不快な水」。この激しい衝突こそが、この場面の醍醐味です。
[Image Advice: 激しい斜めの雨(銀箭)を視覚化した図解。理想の「視覚」と現実の「触覚」の対立を示す]
動く水墨画「雲煙飛動」を拒絶する肉体
漱石は、自分が「詩人」として失格しつつあることを、自嘲気味に告白します。
「雲煙飛動(うんえんひどう)の趣おもむきも眼に入いらぬ。落花啼鳥(らっかていちょう)の情けも心に浮ばぬ。」
本来、優れた芸術家であれば、雲や霧が龍のように湧き起こるダイナミックな筆勢(雲煙飛動)や、散る花と鳥の声(落花啼鳥)に情緒を感じるはずです。しかし、雨に濡れた肉体的な苦痛のせいで、そんな「芸術的観察」をする余裕が全くなくなってしまった。漱石はここで、教養が教える「正しい春の楽しみ方」が、肉体の疲労の前にいとも簡単に崩れ去ることを認めています。
詩の中の孤独な旅人から「一豎子」への転落
春の山を一人行く自分を、客観的に見れば「一幅の絵」として美しいはずだと漱石は考えます。しかし、現実は残酷です。
「蕭々(しょうしょう)として独ひとり春山(しゅんざん)を行く吾われの、いかに美しきかはなおさらに解せぬ。……依然として市井の一豎子(いちじゅし)に過ぎぬ。」
- 蕭々(しょうしょう): 風雨が物寂しく降る音。英雄や孤独な詩人の旅路を飾る言葉です。
- 一豎子(いちじゅし): 『史記』に見られる言葉で、「つまらぬ男」「青二才」という自虐的な罵倒語です。
自分を風景の一部(点景)として客観視できれば「画中の人物」になれますが、現実に寒さに震え、足元ばかり見つめて歩く自分は、ただの「濡れ鼠」であり、街に溢れる**「一豎子」**に過ぎません。「自分を画中の人物と思えるかどうか」という芸術の境界線が、雨という自然の力によって曖昧になっていく過程が描かれています。
まとめ:漱石のアイロニーと「非人情」のゆらぎ
この場面の面白さは、以下の表に見られるような「知的な教養(雅)」と「肉体的な感覚(俗)」の対比に凝縮されています。
| 局面 | 非人情(理想・雅) | 人情(現実・俗) | 格闘の結果 |
| 風景 | 銀箭(銀の矢) | 浸み込む生暖かい水 | 生理的嫌悪の勝利 |
| 自己 | 蕭々たる孤客 | 一豎子(つまらぬ男) | 肩をすぼめる |
| 感興 | 雲煙飛動・落花啼鳥 | 足の甲を見つめる | 余裕の喪失 |
漱石は最後に**「非人情がちと強過ぎたようだ」**と結びます。この一言には、頭でっかちな理想(中国文学的な隠逸の美学)だけでは、現実の雨(生身の人間としての苦痛)は凌げないという、漱石らしいユーモア溢れる敗北宣言が込められています。
しかし、この「非人情の失敗」こそが、後に宿で出会う「画にならない女」那美さんとの、理論を超えた対話へと繋がっていくのです。私たちは漱石のこの「揺らぎ」の中にこそ、近代社会を生きる人間としての真の愛おしさを見出すことができるのではないでしょうか。



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